写真化学 試験 (2003年度) 解答と解説
[ 1 ] 0.200 M AgNO3 水溶液と 0.200 M KBr 水溶液を用い,50 oC にて,コントロールドダブルジェット法で AgBr 微結晶を調製しようとした.
問1 実験装置と手順の概要を示し,どのようなところに注意する必要があるかを述べよ.
チェックシート3 も参照.
溶液添加部分の実験装置の概念図を示す.
溶液中には pAg または pBr を測定するための電極系 (Ag 電極などと適当な参照電極) をセットし,pAg 値が一定の値を保つように常にポンプにフィードバックをかけて流量を調節しながら粒子を作っていく.このとき,反応溶液内には粒子凝集を防ぐ保護コロイド剤が必須で,写真乳剤調製では通常ゼラチンが用いられる.
ポイントは,2液を別々のポンプから入れること,pAg (あるいは銀電位) を測定すること,その値を一定に保つべくポンプにフィードバックがかかっていること,さらに保護コロイドとしてゼラチンを共存させること,である.
問2 この方法で,0.100 M AgNO3 水溶液 200 mL を用いて粒子を調製した.その結果,一辺が 120 nm の単分散立方体粒子が得られた.生成した粒子の総数を求めよ.ただし AgBr の密度を 6.47 g cm-3 とする.
チェックシート2 も参照.
AgBr の溶解度積は小さいので,通常は添加した Ag+ イオンはすべて AgBr になったとみなしてかまわない.もちろん実際には溶解沈殿平衡が成立するので,すべてが AgBr になるわけではないし,だからこそ pAg というものが測定できるわけであるが,溶液中の Ag+ イオンの濃度は極めて低いので,AgBr の生成量を計算するときには事実上無視してかまわない.添加された Ag+ イオンの総物質量は 0.100 mol/L × 0.200 L = 2.00 × 10-2 mol であり,これがそのまま生成した AgBr の物質量であるとみなして十分である.
生成した粒子一つの質量を求めると,(120×10-7 cm)3×6.47 g cm-3 = 1.12×10-14 g となる.AgBr = 187.8 g mol-1 であるから,1粒子は 5.95×10-17 mol の AgBr を含んでいる.生成した総 AgBr 量は 2.00×10-2 mol であるから,粒子数は 2.00×10-2÷5.95×10-17 = 3.36×1014 個である.
[ 2 ] AgBr 結晶の伝導帯の底と価電子帯の頂のエネルギーレベルは,それぞれ真空準位から 3.2 eV,5.9 eV 下にあるとする.次の色素のうち,分光増感の可能性のある色素はどれか.理由を付けて答えよ.ただし,色素の HOMO のレベルも真空準位から eV で測った値とする.
色素 A B C D E
HOMO (eV) 5.8 4.5 5.8 6.1 5.1
吸収極大波長 (nm) 443 828 517 459 591
チェックシート4,チェックシート6 も参照.
分光増感がおこるためには色素から AgBr の伝導帯への電子移動がおこる必要がある.そのためには色素の LUMO が AgBr の伝導帯の底よりもエネルギーが高い必要がある.したがって,色素の LUMO レベルを見積もらなくてはならない.LUMO レベルは HOMO レベルから励起エネルギーだけ高いところにあると考えられるので,まず励起エネルギーを見積もる.光量子のエネルギー E は E = hν =hc/λ で与えられる (h: Planck 定数,ν: 光の振動数,c: 光速度,λ: 光の波長) ので,それぞれに数値を代入することで励起エネルギーを計算する.ただし,h に 6.626×10-34 J s を使うと光量子のエネルギーも J で求まるので,これを eV に換算しておく.1 eV = 1.602×10-19 J である.たとえば色素 A の場合,励起エネルギー = 6.626×10-34 J s × 2.998×108 m s-1 / 443×10-9 m = 4.48×10-19 J = 2.80 eV.LUMO レベルは HOMO レベルよりこれだけ高い位置にあるはずなので,5.8 - 2.8 = 3.0 eV 真空準位の下にあることになる.同様に計算して得られた励起エネルギーと HOMO レベルより LUMO レベルを見積もると,以下のようにまとめられる.
色素 A B C D E
励起エネルギー (eV) 2.80 1.50 2.40 2.70 2.10
LUMO (eV) 3.0 3.0 3.4 3.4 3.0
AgBr のバンドレベルとあわせてこれらの結果を図にすると,
結局,LUMO からの電子注入が可能な色素は,A,B,E の3種類である.しかしこのうち A は励起エネルギーが 2.8 eV と,AgBr 自体の励起エネルギー 2.7 eV (= 5.9 - 3.2) よりも大きい.すなわちこの波長では AgBr 自体が感度を持つため,分光増感の意味がないことになる.したがって,分光増感可能な色素としては,B と E が残る.
[ 3 ] 問1 最近のカラー写真乳剤では,カプラーは高沸点有機溶媒の微細な (0.1 μm 程度) 液滴に溶解された状態でゼラチンバインダー中に分散されている.このような形でカプラーを乳剤層中に入れる理由を説明せよ.
問2 DIR カプラーとはどういうカプラーか.これを使用することのメリットは何か.
チェックシート10 の問4,問5 を参照.
[ 4 ] 写真感光過程における集中原理と潜像分散現象について,Gurney-Mott 理論と関連づけて説明せよ.
Gurney-Mott 理論によると,光吸収によって生じた励起電子が,結晶内の局在トラップ準位に捉えられ,そこに移動可能な格子間銀イオンが移動してきて新たなより深いトラップ準位となり,次の励起電子を捕獲,さらに格子間銀イオンが反応,となって潜像核へと成長していく.このとき,励起電子の発生間隔が適切であれば,一つの結晶粒子内に一つの潜像核ができるような形で潜像成長が進む.これが集中原理である.しかし,光強度が極端に強く励起電子の発生が同時多発的におこると,それぞれの電子は別々のトラップに捕獲されることになり,一つの粒子に複数の潜像が発生することになる.これが潜像分散で,これがおこるとより多くの光量子を使わないと現像可能な潜像まで成長できず,みかけの感度が低下することになる.このような現象はトラップ密度のあまり高くない未増感乳剤では極端高照度でしか問題にならないが,現在の実用乳剤のように硫黄増感などでぎりぎりまでトラップ密度を上げていると,通常光露光でも (程度の問題はあるにしても) 潜像分散はおこっている可能性が高い.関連して,光強度が極端に弱いと励起電子発生の間隔が非常に長くなり,いったんトラップに捕獲された電子が熱的に再励起される確率が無視できなくなってくる.これが低照度相反則不軌のひとつの原因である.
[ 5 ] A = A+ + e という酸化還元対考える (標準電極電位 0.250 V vs SHE,25 ℃).今,25 ℃ において [A] = 0.100 M,[A+] = 0.0100 M を含む溶液に白金電極を挿しこみ,その電位が 0.220 V vs SHE になるように外部回路から電圧を印可した.このときに白金電極でおこる反応はカソード反応かアノード反応か,理由を付けて答えよ.
チェックシート8 の問6参照.数字が違うだけである.結論はアノード反応.
[ 6 ] pH 10.0 の緩衝液中で現像主薬 A を金電極上で電気化学的に酸化する実験を行った.A を投入する前に溶液には十分窒素ガスを通じ,その後も窒素雰囲気下ですべての操作を行った.まず電位を卑な電位から貴の方向に徐々に上げていくと,ある電位からアノード電流が観測された.この溶液に露光した写真フィルムを浸けたところ,現像された.一方,A の代わりに別の物質 B を用い,他の条件は A の場合と同じにして同様の実験を行ったところ,ほぼ同一の電流-電位曲線が得られた (つまりほぼ同程度の電位で同程度のアノード電流が流れた) が,フィルムを浸けても現像はおこらなかった.この実験結果について説明せよ.
電流-電位曲線の測定からは,A も B も同程度の還元力を持つことがわかる.したがって,A が現像能力をもつということは,熱力学的な意味においては B も現像能力があるはずである.しかし実際に現像がおこらなかったということは,電極である潜像核に対して,金電極とは違う状況があると考えるべきである.ひとつの可能性は,潜像核が微小な銀電極とみなせるのに対して,電流-電位曲線の測定が金電極で行われていることで,電極材料によって電荷移動速度が大きく変化することは頻繁に観察される.金電極の替わりに銀電極を用いて電流-電位曲線の測定を行うことで確認ができるだろう.もう一つの可能性は,潜像核はゼラチンバインダ中にあるため,必ずゼラチンが吸着した状態にあることである.還元剤によっては吸着ゼラチンにブロックされて電極表面に到達できず,電極反応を行えないということが考えられる.この場合は金電極 (あるいは銀電極) にゼラチンが吸着した状態での電流-電位曲線測定を行うと比較できるだろう (ゼラチン吸着条件では A はある程度,あるいは変わらないくらいに電流が流れるが,B はほとんど電流が流れなくなるだろう).この実例はアスコルビン酸で,ゼラチンなしでは現像可能を示す電流-電位曲線が得られるが,ゼラチン存在下では著しく電流が抑制され,実際,アスコルビン酸単独の現像液では現像速度は実用にならないくらい遅い.
なお,pH が低すぎたために現像がおこらなかったという答が散見されたが,pH そのものが現像の可否を決定しているわけではないことに注意.現像主薬によっては pH が低いと現像されないが,それは酸化還元電位自体が貴にシフトするからであり,当然,その条件では電流-電位曲線も自体も貴にシフトして現像不可能を示すようになる.
また実験を窒素下で行っているのは,溶存酸素によって A または B が酸化される反応を排除するためである.
[ 7 ] 現像の電極モデルとして図のような装置を組み,どちらかのセルにある現像主薬 A を投入する実験を行った.実験前および実験中には緩衝液には十分窒素ガスを通じ,また,光の影響は無視できるものとする.
問1.電流計に電流が流れたのは,どちらのセルに A を入れたときか.またこのとき電流の流れる方向を図中に矢印を記入して示せ.両極でおこる反応を示せ (現像主薬の化学構造は示す必要はなく,どのような反応かがわかればよい).
この実験装置は講義中で説明した.現像とは潜像核上で現像主薬が酸化され,そのときに潜像核に渡された電子で AgBr が還元されて Ag になるというプロセスである.したがって潜像核がわりになる銀電極側に現像主薬を入れれば電子注入がおこりえるはずで,その電子は外部回路を通って AgBr 電極まで到達し,AgBr の還元がおこりうる.一方,AgBr 側のセルに現像主薬を入れても潜像核にあたるものがないため AgBr の還元はおこらない (正確には速度が遅い) はずであり,もしおこったとしてもそれは外部回路に対する電流とはならない.したがって,左側のセルに A を入れたときに電流が流れ,その向きは AgBr 電極から Ag 電極の方向である (電子の流れと電流とは逆向きであることに注意).
起こる反応は,
Ag 電極側では A → A酸化体 + ne (反応する電子の個数を n として)
AgBr 電極側では AgBr + e → Ag + Br- あるいは Ag+ + e → Ag
問2.電流が流れている状態で右側のセルに KBr を加えると電流はどのように変化するか,理由を付けて答えよ.
現像反応,あるいはさらに一般的に言えば電池反応の駆動力は,両極での電子のポテンシャルエネルギー差である.これは電位という形で評価できる.銀電極側の電位を決定しているのは,基本的には現像主薬 A である.このときの電位 Eleft は,
Eleft = Eo1 +(RT/nF)ln([Aox]/[A])
と表せる.ここで [Aox] は A の酸化体である.
一方,臭化銀電極の方の電位を決めているのは,銀イオン自体である (AgBr には溶解度積があるので,溶液中には必ず銀イオンが存在する).AgBr 電極の電位 Erightは,
Eright = Eo2 +(RT/F)ln[Ag+]
と書ける.さらに,溶解度積 Ksp=[Ag+][Br-] をここに代入すれば,
Eright = Eo2 +(RT/F)ln[Ag+]
= Eo2 +(RT/F)ln(Ksp/[Br-])
= Eo2 +(RT/F)lnK - (RT/F)ln[Br-]
これより,Br- 濃度を上げると Eright がマイナス方向に動くことがわかる.電子は右側の Ag 電極から外部回路を通して AgBr 電極に移動して来る.このとき AgBr 側の電位がマイナス方向にシフトするということは,あきらかに電子移動という点では不利になることがわかるだろう (Ag 電極側が何も変化していないので).
したがって,電流は減少する.
[ 8 ] 問1.ある物質がカラー写真の漂白液に使えるかどうかを実際に漂白を行わずに知るためには,どのような実験を行えばよいか説明せよ.
漂白は基本的に Ag → Ag+ という酸化反応である.つまり,漂白液にはこの反応をおこすだけの酸化力が要求される.酸化力 (あるいは還元力) の物理化学的な指標は,酸化還元電位である.したがって,漂白液の電位がどの程度であるかを測ることは,漂白液の基本性能を知る上で重要である.
しかし,酸化還元電位は熱力学的な量であることにも注意する必要がある.熱力学量ということは,この反応がおこるかどうかは判断できるが,おこる場合の速度までは関知しないということでもある.現像の場合と同様,反応がおこることはおこるにしても,実用にならないくらい遅いということもありうる.この場合は,電流-電位曲線の測定も有効であろう.ただし,銀を電極に使うわけにいかないので,他の電極材料に対する電子移動速度で,銀との電子移動速度を近似できるかどうかは難しい問題ではある.
問2.カラー写真の現像を行おうとして,誤って最初に再ハロゲン化漂白液に浸けてしまった.あわてて取り出して水洗し,あらためて正しい現像液で処理を行った.どのような結果が得られたか,理由を付けて説明せよ.
再ハロゲン化漂白は,カラー現像後に生成する金属銀粒子を酸化し,ハロゲン化銀に戻してしまう働きをする.ハロゲン化銀に戻した後,現像されなかったハロゲン化銀と一緒に定着で溶解除去してしまうことで,色素のみからなる画像を残すためである.露光したハロゲン化銀は潜像を持っているはずであるが,潜像の正体はハロゲン化銀粒子中に光生成した微小な金属銀核である.したがって,現像前に再ハロゲン化銀漂白液にフィルムを浸けると,この微小金属銀核が酸化されてハロゲン化銀になってしまう.つまり潜像が消失することになる.この後で水洗しても潜像核は復元するわけもなく,現像しても像は得られないであろう.
[ 9 ] 現在,デジタルカメラ,カラーインクジェットプリンタ,カラーレーザープリンタなどに代表される新しい撮像システムと出力システムが普及し始めている.従来からの銀塩写真,あるいはそれをベースにしたシステムが今後もある程度の市場を確保するためには,どのような点が課題になるだろうか.自由に考えを述べてください (まじめに書いた内容であることさえわかれば,書かれた内容自体の妥当性は問わない).
(略)